安心を得るために:リスクコミュニケーション

 

<クマ:自分の生い立ちを調べているクマムシ>

<Koby:一緒に調査している科学オタク>DENNGIHA_1.GIF - 13,921BYTES



Koby:放射線の話をいろいろ調査してきたけど、少しは分かったかな。

クマ:だいぶん放射線のことについて、分かってきて、理解できるようになったと思うよ。

Koby:さて、今回はまとめの回ということで、リスクコミュニケーションの話じゃ。

クマ:リスクのコミュニケーション? 

Koby:リスクコミュニケーションとは、社会を取り巻く色々なリスクに関する正確な情報を、市民、企業、専門家、行政などのステークホルダー(利害関係者)でお互いに理解し、そしてその認識を共有しようとする活動のことじゃ。アメリカなどでは、社会や企業の存続のためには、重要かつ必要な活動として、いろいろ取り組まれておる。 今回の、放射線の調査と報告なんかは、まさしく一種のリスクコミュニケーションとも言える。 DENNGIHA_1.GIF - 13,921BYTES



クマ:リスクを理解するだけで何かの役にたつの?

Koby:そうじゃの。いい質問じゃ。 まず、市民、というか、リスクを受ける側の人にとっては、まず、正確な情報を理解することで、安全性を自分自身で理解でき、「安心」を得るための一助となる。 「安心」という言葉が重要なんじゃ。 人間の活動で、安心感がなければ、どうなると思う?

クマ:安心の反対は、不安だね。不安がいっぱいの社会は、つまらないし、いやだよ。第一、面白くないと思うな。

Koby:その通りじゃ。人間の社会で、いままで色々なリスクの直面してきているわけじゃが、これを乗り越えるには「安心感」がなにより重要なんじゃ。昔の場合で、科学的な情報が少ない時などは、迷信にすがったりしたもんじゃ。 また、合理的に解決できないときに、救いを得るための精神的な指針として、種々の宗教が発達したとも言える。 いずれにせよ、ヒトの心の安心感は、大切なんじゃ。

クマ:「安心感」が大切なのは分かったけど、「安心感」で人それぞれ、別々じゃないの。

Koby:そうじゃな。そして安心感は一種伝染する、雰囲気みたいな要素も含んでいる。しかし、重要なのは、個々人が、自分自身で判断して得られた「安心感」は揺らがないということじゃ。自分自身で、判断できないからこそ、雰囲気で判断せざるを得なくなる訳じゃ。 また、最近ではインターネットでの情報があふれているので、嘘の情報にも惑わされるリスクもある。

クマ:ということは、情報が少なかった昔が、ひょっとすると、「安心感」があふれていたことも?

Koby:まぁ、そういうこともあり得るな。 ただ、反対に簡単にだまされる危険性も大きいわけだ。いずれにせよ、正しい情報の見分け方が大切じゃな。そして、自分自身で理解しようとする姿勢じゃな。 さて、次は、リスクを出すかもしれない側じゃ。

クマ:リスクを知られなければ、問題ないかもしれないじゃん。

Koby:そう、はっきり言うな。まぁ、その通りなんじゃが、これがほとんど不可能になってきておるんじゃ。つまり、隠したリスクをそのままにして、問題が発生した時は、企業の経営者に株主から責任が問われ、最悪、その責任を負わされることになるからじゃ。

クマ:そういえば、最近いろいろ、そんな話がありますね〜。

Koby:ということで、リスクを出すかもしれない側も必要性を感じてきているんじゃ。

クマ:じゃ、リスクコミュニケーションをやればいいじゃん。

Koby:ところが、これが一筋なわにはいかんのじゃ。
まず、リスクを理解したときは、普通「心配」が増大する。もっともじゃな。リスクを理解して「安心」を得るには、今までにあって実感していなったリスクと比較してどうかという判断が必要となる。
この、いままで普通にあって実感していなかったリスクをまず理解することが大変にむずかしい。
平たくいうと、いままで何も知らずに安心できていた世界が、まず現状を知ることで「不安世界」になってしまうようなもんじゃからの。
ここを通りぬけて初めて、「安心」が理解される訳じゃ。

慣れるまでは、大変じゃの。 また、リスクを出すかも知れない側も同様じゃ。
まじめに、リスクコミュニケーションをやらずとも、「運」に頼もうとする。そして、企業にとって新たなリスクを見出すことは、全くもってマイナス要素以外の何物でもないからじゃ。
しかし、人間があふれる情報のなかで進歩するには、合理的な(ロジカルな)リスクコミュニケーションで「安心」を得るしかないことは、簡単にわかるじゃろう。

これからは、これが、重要になる。

クマ:深いなぁ〜。でも、良く分かりました。